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読本履歴

『凡人が非凡になる唯一の方法。それは「続ける」こと。』

『勉強の結果は「机に向かう前」に決まる』(池田 潤 著)

タイトルはこの本の結びの言葉。

本一冊かかって述べてきたことは結局それか! という感じではあるのだが・・・

継続することが大切だ
継続するためには楽しめなければならない
楽しむためには理解しなければならない
理解するためには集中とやる気が必要だ

ものすごく乱暴に言うとそういうこと。
間違ってはいない。
間違ってはいないが、結局それが大変なんだってば!

「非凡」とまでは言わないが、自信を持ってそれが「できる」と言える様になるにも続けることは大事、ということで・・・
頑張っていこー!

「パンプキン! 模擬原爆の夏」を読んで

パンプキン爆弾という、原爆の投下演習するための爆弾があったらしい。
自分は長崎出身のため、小学校の夏休みは8月9日が登校日で、原爆に関する話を聞かされたものだったが、パンプキン爆弾の話は初耳だった。
世界初の事柄に対し、予行演習は付き物ではあるが、日本各地にパンプキン爆弾を落とし、データを取っていたとは、今更ながらに驚きである。

本書は同じように「そんなことがあったのか」と驚いた少女ががパンプキン爆弾について調べていくうちに、「原爆とは?」「戦争とは?」と考えていく話。
あくまで児童文学ではあるが、大人が読んでも充分に考えさせられるものがある。

今の世の中、知らされない事、知らなくても良い事、知らないふりをしても過ごせてしまう事、そんな事柄が溢れている。
登場人物の少年の台詞。
「知らないのはこわいことだよ。だれかの言っていることが事実とちがっていても、そうなのかなあって信じてしまう。ぼくはそれがいやなんだ」

パンプキン爆弾の存在という「歴史の裏側」的な事実。
いつの時代にも存在するであろう、為政者や権力者にとっての不都合な真実。
「知る権利」を振りかざすだけでなく、「知る努力」をしなければならないのかもしれない。

パンプキン!-模擬原爆の夏-令丈-ヒロ子

「ウェブはバカと暇人のもの」を読んで。 その3

これらの続き。
・「ウェブはバカと暇人のもの」を読んで。
・「ウェブはバカと暇人のもの」を読んで。 その2

・・・なんだか前2つの文章を書くのは非常に疲れた。
疲れた理由は多分2つ。
一つ目は、自分もこの「スマートでない人」の一人だよなぁ・・・と思いながら書いていたせい。「バカ」な事はしていないつもりだが、それでも、本当の意味でスマートで居られた訳でないのも事実。
ネット空間も公の場。それは常に意識していかないと・・・と思わされた本である。

もうひとつの理由は、内容、というか言葉の違和感。
多くのひとにとって分かりやすいだろうと思って「ネット」と「リアル」という言葉を使い分けたものの、実は自分にはこの区分けがしっくりこない。

話は飛ぶようだが、実は「人工」と「自然」の使い分けもしっくりこない。
「ヒト」が生物として存在し、生物として活動した結果、建物を作り、道を作り、道具を作ってきた。それは生物として「自然」な営みではないのか?
例えばキツツキが木に穴をあけ、巣を作る。ビーバーがダムを作る。象が森林を突き進み道を作る。チンパンジーが
ベッドを作る。イナゴの群れが農作物を食い荒らす。「ヒト」以外の生き物の営みはたとえ環境破壊につながっていたとしても「自然」だ。
「自然」に「人工」が含まれていて、「ヒト」の営みだけに特別に名称がつけられているならわかる。でも基本的に「人工」と「自然」は相反するものとして扱われる。

「リアル」と「ネット」も同じ。
人はあくまで「リアル」な存在でしかありえない。SF映画でもない限り、仮想空間の住人になどなれはしない。「リアル」な人としての活動の一部に、「ネット」を使った「何か」があるだけだ。

読書や、音楽や、スポーツが好きで、それらに興じるのと同様に、「ネット」を使ってゲームをし、情報を集め、情報を発信する。それを楽しむのは「リアル」な人間でしかない。

結局、「ネットの世界」は「ネット革新論派」が言うような、世界を変えるツールを使いこなす、新世界の住人でありたい「スマートでない人」たちの幻影に過ぎないのだと思う。

以上、長々と?続いたが、この「ウェブはバカと暇人のもの」を読んでつらつらと考えてみたことである。

「ウェブはバカと暇人のもの」を読んで。 その2

こちらの続き。

この本の中にあった『ネットは、本来一緒の場所にいるべきでない両者を同じ土俵の上にあげてしまうのである。』という言葉は印象的であった。
どちらかと言えば、それにより、異業種のコミュニケーションが行われることで、これまで考えらなかったコラボレーションが起きるこがプラス面として期待されていたはずである。

ところが、実際には、土俵が違えば文化も違う。背景もわからない事柄に、勝手なコメントを述べられるのは必ずしもいいことではない。

Twitterの様に140文字の中で、そもそも深いコミュニケーションが求められるべくもないものはまだいい。言った方も言われた方も、誤解やむなしで使うべきツールだ。(「ネット革新論派」は多分そう思ってないだろうけど)

「ネット革新論派」が唄う「双方向でボーダレスなコミュニケーションは素晴らしい」に乗せられて「スマートでない人」は自分が関わるべきところかどうか、気軽に足を踏み入れていい場所かどうかの判断力を鈍らせて、結果場違いな言葉を残し、その言葉に惹かれて「スマートでない人」たちがまたその場にぞろぞろと立ち入ってくる。しかも、匿名性を隠れ蓑に、攻撃性を増していく。

ちなみに、電話よりメールの方が強い口調になりがち、という調査結果を見たことがある。お互い面が割れている場合でさえ、そういう状態らしい。
さらに、リアルな社会でも、行き過ぎた個性尊重と、自己の権利主張があちこちで見られる昨今である。
ネット技術が革新的に進化しても、人の革新が起こらない限り、ミスコミュニケーションはなくならない。気をつけよう。

ウェブはバカと暇人のもの

「ウェブはバカと暇人のもの」を読んで。

「ウェブはバカと暇人のもの」を読んだ。2009年4月発刊なのでちょっと古めの本。いや、本としては古くもないのだが、移り変わりが速い、IT関連の本は旬に読まないとあまり意味は無い、と思っているもので。が、中身については今読んでみても、おおよその部分で同意できる。言葉はあまりよろしくは無いが著者が指摘している「バカと暇人」がネット世界を闊歩している様は2年前と何ら変わらない。もっとも自分がこうやって所感めいたことを書いているのも「暇人」と指摘されることではあるのだが。(せめて「バカ」ではないと思いたい・・・ちなみにあまり「バカ」だの「暇人」だのの言葉は使いたくないので、今後は『スマートでない人』と称すことにする)

ただ、著者のタイトルの意図は、ユーザーを揶揄するというよりは、「ネットを利用すれば社会は進化する」的発言をする人(こちらも面倒なので「ネット革新論派」とでも称することにする)に対してのメッセージなのではないかと思われる。

確かに、「ネット革新論派」が想定しているような「スマートな人」だけが、ネットを使いこなせば、より発展的な使い方になるのだろう。理性的で、教養深く、品行方正で、感情的にならず、的確な分析能力に長けて、常に自己の成長と社会の発展を考える・・・そんな「スマートな人」と比べれば、世の中のほとんどの人は「スマートでない人」だ。

経済学者が想定する合理的な経済活動を想定し、様々な行動予測をするが、実際にはそうならない。実際には、感情・打算等を含めて人は行動する(そういったものを研究する、行動経済学なる学問もある)。「ネット革新論派」はあくまで経済学者的発想であり、世の中の多数を占める「スマートでない人」の行動とは合い入れない。ましてや、匿名性の高いネット社会で、想定通りのスマートな活動で満たされるなんてことはありえない。なので、ユーザーを揶揄するよりも、「ネット革新論派」にむけて、『世の中「スマートでない人」ばかりなんだから、空論ばかりこねくり回しても意味は無いんだよ』という事を言いたかったタイトルのなのだと推察する。

・・・長くなりそうなので、とりあえずここまで。
中身に納得がいくどうかはともかくとして、一つの視点として、ヘビーユーザーの方や、企業の広報系の仕事の方などは一読しておいて損はない本だと思う。

「ウェブはバカと暇人のもの」


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